ローマ

久遠の千年都市

ローマ

Do as the Romans do
 2003年に出版され、7000万部の世界的ベストセラーとなったサスペンス小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、「事実に基づいている」との記述により大きな論争を巻き起こした。最も問題になった部分は、キリストがマグダラのマリアと結婚し、子どもをもうけたという解釈と、ローマ・カトリック教会組織オプス・デイに関する描写で、これらに対し特にカトリック教会は、猛烈に反発した。 作者ダン・ブラウンが2000年に発表した「天使と悪魔」の舞台はヴァチカン市国とローマの街。映画「天使と悪魔」は2009年5月15日、世界同時公開された。撮影には制約も多く、ヴァチカンやローマの2つの教会内での撮影許可は得られず、ローマでのロケも、観光客を90秒間以上足止めしてはいけないということで、俳優が一般人に紛れ、ゲリラ的に撮影を行う場面もあったという。完成作品は、システィナ礼拝堂、サン・ピエトロ広場、彫刻「聖女マリアの法悦」、四大河の噴水、サンタンジェロ城など、様々な技術を駆使し再現された、観光名所巡りの趣がある映像となった。
 ローマで行われたプレミア後に出されたヴァチカンの日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」は、「教会にとって危険ではない無害なエンタテインメント」と結論づけ好意的なコメントを示した。

注意情報

 ローマが舞台といえば「ローマの休日(1953)」での、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn,1929~1993)演じるアン王女がスペイン階段で「庶民の味」ジェラートを初めて食べるシーンが思い起こされる。記録的な猛暑だったという撮影当時は、実際に移動式のジェラート店があったようだが、2008年、ローマ旧市街の有名観光地では、立ち止まっての飲食のほか、叫んだり寝ることも禁止された。これは歴史、芸術、文化的に価値のある建造物・エリアを保護する目的の条例が強化されたもので、違反すると、50ユーロの罰金が科せられてしまう。
 のどかなシーンの再現はできなくなってしまった。

永遠の都

 ローマ。イタリアの首都。ラツィオ州ローマ県の州都、県都。人口約270万人、面積約1285㎢。札幌市との比較、人口約1・4倍、面積約1・2倍。
 かつてのローマ帝国の首都、2000年以上の歴史を持ち、古代ローマ、ルネサンス、バロック、文化遺産の宝庫であり、人類の文明・歴史を空の高みから俯瞰できるかのような街。
 ローマ市内、テベレ川の西には世界最小の主権国家ヴァチカン市国すなわち、ローマ・カトリック教会の中枢、いわばキリスト教の総本山がある。西洋文明圏を代表する「永遠の都」それがローマだ。

歴史が達成したもの

「ローマは一日にして成らず」「ローマではローマ人のするようにせよ(郷にいれば郷に従え)」。いずれもローマに関することわざ・慣用句だが、フランスの詩人、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine, 1621~1695)の「寓話」の中の「すべての道はローマに通ず」(ラテン語の格言がもとといわれる)は、象徴的な言葉ではなく、ローマ街道の本質を表している。古代ローマ帝国では、街道・上下水道・港・広場・競技場・劇場・公共浴場など、あらゆる社会基盤の整備が最重要とされた。属州(イタリア以外の海外領土)に対しても同じレベルのインフラ整備が求められた。結果、文化・経済交流が活発になり、何世紀にもわたりローマは繁栄した。そう、「romantic(ロマンティック)」、「romance(ロマンス)」という単語も、本来は「ローマ風の」という意味だ。
 カエサルやキケロなどの古代ローマの英雄がすごした古代ローマ帝国の中心、元老院のあった「フォロ・ロマーノ」は、コロッセオの西、フォリ・インペリアリ通り側に位置する遺跡。歴代の皇帝が権力を後世に誇示すべく作り上げたフォロ(公共広場)の中央にある、「聖なる道」沿いに神殿や教会、凱旋門などの大小さまざまな遺跡が並ぶ。
 19世紀に本格的発掘が行われるようになるまでは、家畜の放牧場として忘れ去られていたこの地はかつて、丘に囲まれた低湿地帯だったが、紀元前6世紀に大下水道クロアカ・マクシマが整備され、ローマが実質的に都としての地位を失う3世紀末頃まで数々の歴史を刻んだ。

幻視

大理石の精緻な白。対する空と海の紺碧。19世紀に活躍した英国の画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema,1836~1912)の絵画作品は、2000年の時を超え、古代ローマの空気を、まるで映画のワンシーンのように切り取ってきたかのようだ。「大理石を描かせたら並ぶものはいない」といわれ、精緻な筆致による写実性と建物、風俗、習慣などの時代考証の正確さ、理想化されたロマンティックな女性像などで高い人気を得た。
 アルマはオランダに生まれ、1852年、16歳でアントワープの美術アカデミーに入学、絵画技法とともに古代ローマの知識を学んだという。1863年、27歳でフランス人のポーラインと結婚、新婚旅行で訪れたヘルクラネウムやポンペイ(どちらも紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火により埋没、18世紀前半に再発見させるまでは消滅したとされていた)の遺跡に感銘を受け、これ以降古代ローマ、古代ギリシア、エジプトなど歴史を題材とした作品を手がけるようになる。「期待」が1889年のパリ万国博覧会で金賞を受賞するなど、一世を風靡し国際的にも人気画家となったアルマは1899年、63歳の時にナイトの称号を与えられ(出身階級にかかわらず、イギリス国家への貢献に対し英国君主が授与する栄典)サーの敬称で呼ばれるようになった。しかし晩年は他の新古典主義(18世紀中ごろから19世紀初めに、古代ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、政治情況とも関連して生まれた芸術様式)の画家同様、時代に忘れられていき、76歳で生涯を終えた。
 後の1960年代になって、ヴィクトリア朝絵画の再評価とともにアルマの絵画も注目され、前述の映画「ローマの休日」や「ベン・ハー(1959)」のウィリアム・ワイラー、また「グラディエーター(2000)」のリドリー・スコットなど、ローマ史劇を手掛けた映画監督たちにも多大な影響を与えることになった。