北欧の風景を奏でた音楽家

ジャン・シベリウスがいた場所。

シベリウスが求めた安らぎと静寂

フィンランドが誇る作曲家ジャン・シベリウスにまつわる場所は国内に数多くある。その中でも、
ここアイノラは特別な場所だ。シベリウスが1904年に移り住み、半生を過ごした家である。彼が憧
れていた豊かな自然に囲まれた静かな暮らしを得ることができたのが、ここヤルヴェンバーだった。
 街道から少し中に入り、森の小道を下草や落ち葉を踏みしめながら少し行くと、木々に囲まれた素朴な外観の家が見えてくる。この「アイノラ」はシベリウスが初めて建てた家だ。「アイノの家」という意味で、シベリウスの妻・アイノの名にちなんで付けられた。
 ジャン・シベリウスは、フィンランドのみならず北欧を代表する作曲家だ。1865年ハメーンリンナで生まれ、小さい時からピアノやヴァイオリンを習い始めた。19歳でヘルシンキ音楽院に入学し、本格的にヴァイオリンと作曲を学んだ。卒業後はヨーロッパ各国に留学し、帰国後に開催された初演コンサートで「クレルヴォ交響曲」を発表して成功を収めるなど、早くからその才能を表していった。彼の最も有名な曲と言えば交響詩「フィンランディア」である。1899年に作曲されたこの曲は、ロシアの占領下にあったフィンランドにおいて、国民の独立心を奮い立たせるシンボル的な存在となった。その後も数々の交響曲など大作を発表し、音楽家としての地位を確固たるものにした。ここアイノラでも、ヴァイオリン協奏曲や第三、第四交響曲など数々の曲が生まれている。
 シベリウスがヤルヴェンバーに移ったのは作曲活動に専念するためだ。当時、都会の社交界での華やかな生活はシベリウスの健康や経済をむしばみつつあった。元々シベリウスは自分の持ち家が欲しいと願っており、平和な「田舎暮らし」に憧れていたという。野菜を作ったり湖で釣りを楽しんだり、森を散策したりと夢だった生活をアイノラで実現することができたのである。
 1929年以後30年間、シベリウスは作品を発表しておらず、この間を「アイノラの静寂」と呼んでいる。しかしそれまでの輝かしい功績は彼の人気を揺るぎないものにしており、公的な場への招待や外国の要人との会見などの要望が後を絶たなかった。その陰で、シベリウスは苦悩しながらも常に作曲に取り組んでいた。8番目となる交響曲はついに発表されることはなく、1940年頃書きかけの第八交響曲の楽譜を暖炉に投げ込んで燃やしてしまったという。
 1957年にシベリウスは91歳で亡くなり、ヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれた。彼と妻アイノはこのアイノラの敷地にあるお墓で眠っている。

生活の面影を残す 二人が愛した邸内の調度品たち

 周囲を木々に囲まれた、素朴なたたずまいのシベリウスとアイノの家。彼らはこの家で6人の娘を育て、二人ともこの世を去るまでここで暮らしていた。
 この家は娘たちが国家に譲渡し、1974年から一般公開され始めた。見学できるのは1階の4部屋とキッチン。邸内は、華やかではないが品の良い調度品や友人である画家たちの美術品が飾られ、来訪者をも落ち着いた気分にされるような空気に包まれている。フィンランドの伝統工芸品などのほか、イタリアから持ち帰ったシャンデリアなど外国製品も飾られ、船長をしていた伯父から譲りうけたものも残されている。シベリウスの本名はヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベウリスだが、この伯父もヨハンという名前でフランス風にジャンと名乗っていた。シベリウスは伯父の影響でこの読みを使用し、世界へその名を知らしめたのである。
 アイノラを設計したのは、後に大統領のサマーハウスなどを手がける建築家ラーシュ・ソンク。アール・ヌーボー派の彼は、華美な装飾をせず、周囲の自然との調和を活かしたナショナルスタイルに仕上げた。シベリウスが特にこだわりを見せたのが暖炉である。邸内全部で11カ所あるが、彼のオーダーにより全てデザイン、カラーが異なっている。



※「スカンジナビアン・スタイルVol.11」より転載